東京に「東長崎」という駅がある。このあたりは、昔、長崎村と呼ばれていた地域だそうだ。 東京の元長崎村を探索して、長崎の面影や長崎ゆかりの食材などはないか、長崎と元長崎村の関係はあるのか、などを写真と文章でレポート していきます!

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2010年01月19日

1.プロローグ

田邉昌徳
廣岡佳憲
深野浩平
前田真里




東京都豊島区に東長崎という駅がある。池袋から西武池袋線に乗って二つ目の駅だ。九州の長崎に対して東方にあるので東長崎という駅名がついたのであろうか。この一帯は「長崎」「南長崎」といった住居表示となっており、実は東京にも長崎があったことがわかる。では、この東京の長崎、九州の長崎とはいかなる縁があるのだろうか。もしかしたら、深い絆で結ばれた兄弟のような関係ではないのだろうか。

この「東京にあった?長崎の兄弟!」では、豊島区の長崎を起点に、最終的には東京都内にある「長崎ゆかりのヒト、モノ、場所」までを追ってみることとしたい。
  


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2010年01月19日

2.二つの長崎 その生い立ち

東京の長崎。もともとこの地域は、武州豊島郡長崎村と呼ばれていた。その起源は鎌倉時代に遡る。鎌倉時代末期に北条氏得宗家に仕えた「長崎氏」一族に支配されていた地域であったゆえ、長崎村と呼ばれるようになったとのことだ。ちなみに、長崎という名前が史書に初めて登場したのは、1559年の小田原衆所領役帳である。その記録に「太田新六郎堵知行江戸長崎」といった記載があるそうだ。この太田新六郎は当時の長崎村ばかりでなく、現在の池袋、雑司が谷、高田などの土地を領有しており、総貫高は直轄領と家臣への配分所領を合わせると1,410貫文以上で、北条氏一門や家老に匹敵する有力者であったと推察される。さらに太田新六郎は後に登場する太田道灌の三代の孫ということらしい。いずれにせよ、北条氏は相当早い段階から長崎村周辺を領地として認識していた、ということになる。さて、この「長崎氏」、もともと伊豆国田方郡長崎郷に居を構えていた桓武平氏庶家で、伊豆の長崎に住んでいたことから「長崎氏」を名乗ったそうだ。現に、今も伊豆の国市には長崎という地名が残っている。ただ、この説は口伝によって残されたものであり、未だ豊島区によって正式にオーソライズされた歴史ではないそうだ。いずれにせよ、これが正しければ、九州の長崎が「長崎」として認知される遥か以前に、東京の長崎は存在していたことになる。もし、二つの長崎に関係があるなら、東京の長崎が兄貴分ということになりそうだ。

では、九州の長崎のルーツはいかなるものなのか。九州の長崎は桓武平氏千葉流の流れを汲む「長崎氏」によって支配された地域だそうだ。今の県庁舎がある場所が当時長い御崎であり、そこに居を構えていた九州千葉氏が「長崎氏」を最初に名乗ったとの説が有力だ。そしてこの千葉氏、元寇の際に下総(今の千葉県)から九州に派遣された千葉宗胤が祖であるとのこと。そうであれば伊豆の長崎氏との関係は希薄になる。ただ、この長崎氏が実は鎌倉幕府御案内人の長崎氏の一派であるとの説もあるらしい。もしそれが事実なら、東京の長崎と九州の長崎は兄弟ということになる。事実ははっきりとはわからないが、むしろわからないほうがロマンがあるともいえる。

中世以降、東西の「長崎氏」は、それぞれ別々に発展を遂げており、二つの長崎を関連付ける証は存在していない。つまり、九州の長崎と東京の長崎が兄弟であることを示すDNAは未だ発見されていないということだ。
  


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2010年01月19日

3.東京の長崎のその歴史

現在の豊島区長崎は紛れもなく東京23区内の都会だが、江戸時代の長崎は江戸の範疇に入っていなかった。この辺を、江戸時代の少し前から遡ってみよう。もともと江戸幕府か開府される前の豊島郡は、今の千代田区や中央区から豊島区、練馬区までを含む広大なエリアだった。おそらく、豊島郡という名前は、練馬城(現在の豊島園)、石神井城(現在の石神井公園)を拠点としていた豊島氏にちなんだものではないだろうか。石神井城は鎌倉末期に築城との説が有力だ。室町時代になると、豊島氏は上杉禅秀の乱で勝利を収めた鎌倉公方足利持氏側につき、勢力を伸ばしている。その後も上杉と足利の争いは根深く続き、上杉方は太田道灌に江戸城を築城させる。この江戸城は豊島氏の二つの居城と距離が近く、このあたりから豊島氏と道灌との溝は深まったようだ。豊島氏はその後、太田道灌に対して挙兵した長尾景春に呼応し、太田道灌と戦うことになるが、江古田・沼袋原の戦い(1477年)で大敗を喫し、二つの城は落城してしまう。

その年、太田道灌は一旦は長尾景春を鉢形城に追い詰めるが、足利の血をひく古河公方の出陣を知り、引き下がることになる。そして、翌年末になると古河公方の有力武将であった千葉孝胤と境根原合戦で対峙しこれを破り、翌年には千葉孝胤と千葉氏の当主を争っていた千葉自胤やその甥、資忠を擁して孝胤と争い一旦は孝胤を放逐する。しかし、道灌が下総から撤退するとすぐに孝胤が戻り、自胤側の勢力は下総から一掃されることになる。
豊島郡が一つの舞台となった室町時代の歴史絵巻の中で、江戸城築城の大きな目的の一つが、東方の古河公方側有力武将の千葉氏を抑えるためだったこと、さらに太田道灌VS長尾・古河による上記享徳の乱において道灌が千葉と争ったこと、など、九州肥前の長崎氏ゆかりの千葉氏が登場するのは興味深い。

さて、時は江戸時代に移り、家康が江戸城を増築するに至り、江戸市中が豊島郡から切り離される。すなわち、長崎村は大江戸八百八町の外側の集落になる。当時の華やかな繁栄とは無縁な、平和な農村として江戸時代を過ごすことになるのだ。この時代の長崎村は、現在の長崎、南長崎のほか、千川、千早町、要町、高松町、目白の一部、西池袋の一部、下落合の一部と、現在の豊島区の3割程度を占める広大なエリアだった。当時、今風に言えば大都市近郊型農業地帯で、茄子や大根(今で言う練馬大根)が特産品だった。さて、農業に必要なのは、土地と人手と水だ。このうち、水については、もともと現在の粟島神社の湧き水を主水源とする谷端川によってまかなわれていたようだが、それだけでは広大な農地を潤すのは困難だ。そこで江戸時代には千川上水が作られた。今、長崎村界隈でこの千川上水を捜すと、千川通り下の暗渠となっており目にすることはできない。しかし、千川通り、あるいは豊島区千川という地名がその名残をとどめている。


豊島区郷土資料館作成の「長崎村物語~江戸近郊農村の伝承文化」に掲載されている民話「小さい桶」は、この千川上水が舞台になっている。ある時、近くに住む農夫が、千川上水でかわうそに襲われていたむじなの子を救う。その後、農夫が桶を作っていると成長したむじながその手助けをする、という言わば「むじなの恩返し」みたいなハッピーエンドのストーリーだ。今は交通量の多い通りになっている千川通りからは想像もつかない話だが、実はこの千川上水を上流に遡ると、練馬区、武蔵野市の辺りで上水が姿を見せ、武蔵野の面影が深い農村風景が広がる。上水には鯉も泳いでいる。余談になるが、メンバーの深野の自宅はこの上水から50メートルくらいのところにあり、週末には、今でも当時の長崎村を満喫させてもらっている。


写真は、豊島区立郷土資料館発行の「長崎村物語」。


後に登場願うが、椎名町周辺は長崎村の中心地で、駅前の長崎神社は村の鎮守だったそうだ。この長崎神社では、秋の大祭と春の獅子舞が有名だ。九州の長崎でも秋の大祭にあたる長崎くんちが有名だし、春節にはランタンフェスティバルで必ず中国獅子舞が舞われている。不思議な共通点があるように思うのは我々だけだろうか。

慶応4年(1868年)になると、長崎村は武蔵県の管轄下におかれることになる。その後、明治になり長崎村の管轄が武蔵県、大宮県、浦和県と変わり、明治4年(1871年)に、浦和県が岩槻県、忍県と合併して埼玉県となった際に、豊島郡29村は東京府に編入される。東京の長崎が名実ともに誕生した瞬間だ。当時の呼び名は東京府北豊島郡長崎村だ。そして昭和7年(1932年)になってようやく長崎町(長崎村からの町制施行は1926年)は高田町、巣鴨町、西巣鴨町と合併し豊島区として東京市に編入され今に至っている。  


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2010年01月19日

4.最近の二つの長崎の縁

今回のプロジェクトを進める過程で知ることとなった、東西二つの長崎を結ぶ絆は以下の2件だ。本当は、我々の知らないところにたくさんの絆が張り巡らされているかもしれない。ここに紹介できなかった未知の絆を世に紹介する役割は、この文章を読んだ読者の皆さんに委ねることとしたい。




(1)長崎大水害
1982年夏、九州の長崎は未曾有の豪雨に見舞われた。この日長崎海洋気象台での19時~22時の降水量は例年6月の平均雨量に匹敵する313mmとなった。死者262名をだした長崎大水害である。この惨事を知った東京の長崎の皆さんは立ち上がった。町内会長の「九州の長崎も同じ長崎だ。みんなでできることをしよう!」との呼びかけに応じる形で、古新聞や着古した衣料などを集め、総額100万円程度の義捐金を九州の長崎に贈ったそうである。実に心温まる話だ。

(2)寄席
落語が大好きな長崎在住のMさんが、十数年前に、落語情報誌で東京に「長崎寄席」なるものが定期的に開催されていることを知り、東京、豊島区の東長崎までその寄席を聞きに来た。そこで、東京で「長崎寄席」を主宰されているSさんと意気投合、以来、東西の長崎を繋ぐ素晴らしい関係が続いているとのこと。Mさんは「長崎寄席」のノウハウを活かし、九州の長崎で「もってこーい寄席」を定期開催するようになったほか、数年前には東京の「長崎寄席」関係者十数名が九州の長崎を味わい、そして、もちろん「もってこーい寄席」を聞きに、長崎まで大旅行を行ったとのこと。寄席つながりならではの笑いに満ち溢れた交遊のようです。


写真は、「長崎寄席」、「もってこーい寄席」のちらし。

  


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2010年01月19日

5.東京の長崎探訪ルポルタージュ

私たちは、実際に東京の長崎に触れてみた。一度は長崎神社の秋の大祭見物。そしてもう一度は、東京の長崎に、九州の長崎出身の大将がやっている洒落た居酒屋があると聞きつけ、有志でその居酒屋で酒を飲み、語らった。以下は、写真で綴る簡単なルポルタージュである。




(1)長崎神社:秋の大祭
われわれは、秋晴れの空のもとカメラ片手に豊島区の「長崎神社」の大祭へ向かった。
長崎神社の界隈は、江戸時代に武州豊島群長崎村と呼ばれていた場所だ。大祭の中に吸収の長崎とのつながりを見つけることができるだろうか。期待に胸をふくらませながらまずは、椎名町駅前に降り立った。すると、駅前の交番前の住所表示が「長崎1丁目1-1」となっている。どうやらこの交番が東京の長崎の原点であるらしい。


椎名町駅前の交番。


交番の外壁の住所表示。長崎1丁目1番地1号、とある。


続いて、東京の長崎の街中を探訪してみた。まずは椎名町駅前の商店街。すずらん通り商店街とあるが、ここが九州の長崎で言えば浜の町にあたる地域NO.1の商店街。規模も客層もかなり違うが、それなりの人通りだ。





写真は、長崎で言えば「浜ん町」にあたるすずらん通りアーケード。
庶民的な風情が漂う商店街だ。


商店街を抜けて、住宅地を散策してみる。これといった特徴はない、どこにでもある閑静な住宅地が続く。そんな中、東京の長崎の由来を開設したガイド板を発見した。この地がかつては農村地帯であったことは、上述したとおりだが、大正から昭和にかけては、若き芸術家たちが集う芸術の町でもあったようだ。そういえば、昭和の高度成長期の少年、少女たちに大きな影響を与えた著名な漫画家たち(手塚治虫や赤塚不二夫、石森章太郎など)が生活を共にしつつ、制作活動を行っていたトキワ荘も、かつてこの地にあった。そう思いながらこの町をあるいていると、小学校の門までが芸術的に感じられる。


東京の長崎の由来を解説したガイド板。


長崎小学校の門。長崎とデザインされており、ちょっとした芸術だ。

さて、いよいよお祭りの街に繰り出してみる。街は、年に1度のお祭りとあってまるで「おくんち」のような賑わいだ。
よく長崎のおくんちで、大波止の屋台で売られているハシマキ(割り箸にお好み焼きを巻いたもの)は、見当たらなかったが、かき氷、ケバブ、人形焼や射的遊び、金魚釣りなど色んな屋台が軒を連ねていた。九州の長崎ではあまり見かけない鮎の塩焼きの屋台も発見!美味しそうな香ばしいかおりが立ちこめていた。


写真は長崎神社境内の風景。


鮎の塩焼きの屋台。


屋台で売られていたあんず飴。
カラフルな色合いで思わず楽しくなってしまう。


幸運にも神社にいらっしゃった田中宮司に話を伺うことができた。
長崎神社は、もともとは「氷川神社」と呼ばれたが明治7年に今の名前に改称されたらしい。ということは、諏訪神社との関係はないということになる。また、東京の長崎と九州の長崎とのかかわりは、はっきりとはわからないとのお話であった。


写真上:宮司を囲んで。

秋の大祭のハイライトは、この地域の各町内から出される神輿だ。街中が熱気ムンムンになる。長崎くんちの、練習を重ねた緊張感と充実感溢れる船、踊りなどの奉納もいいが、東京の長崎の、町内での手作り感溢れる神輿の奉納も微笑ましくて味がある。「思わず、追っかけをしてしまったが、追っかけはコッコデショ以来だったような気もする」(前田)。


神輿の様子。地域内の各町の神輿が街中、アーケードなどを練り歩く。

き疲れた所でこの旧長崎村界隈に中華料理店を発見。なんとメニューに「ちゃんぽん」があったので、早速、注文して食べることに。さて、そのお味は・・・?歩きつかれて空腹だったので、美味しく頂いたが、東京の長崎のちゃんぽんは九州のそれとは全く違うものであった。もちろん、別の店では別の味なのだろうが・・・。

われわれの東京の長崎探訪は、こうしてちゃんぽんで幕を閉じた。


東京の長崎の「ちゃんぽん」。味も見た目も、あんかけラーメンだった。


(2)長崎出身の大将がいる居酒屋 
年末には、東京の長崎で長崎出身の大将がやっている居酒屋があると聞きつけ、在京長崎応援団有志がそこに集まった。しかも、前述の「長崎寄席」を主催されているSさんにも飛び入り参加してもらうことになった。


Sさんと大将を囲んでの在京長崎応援団有志。

さて、この店、居酒屋というよりも小料理屋とか、割烹に近い味。東京の長崎にもこんなに洒落た店があるとは!しかも、長崎出身の大将の店だけあって、メニューには「かまぼこ」ではなく「かんぼこ」と書かれていた。

メンバーは、美味しい料理に麦焼酎が加わり、さらにSさんの長崎寄席の話や、長崎に絡む様々な話を語らううちに、あっという間時間が過ぎて、気がつけば終電ギリギリの時刻になっていた。さすが、長崎フリークはのぼせもんが多い!


上の二つの写真は、名物料理の「あんかけチャーメン」(左)と「あんかけバクダン」(右)。    
あんかけチャーメンは、長崎の皿うどんをヒントに作られたこの店ならではの逸品。皿うどんで使うバリバリした揚げ細麺に和風だしのあんがかかり、さっぱりしていた。
あんかけバクダンは、ボール状に揚げた酢飯をくずしながら食べる珍しいメニュー。香ばしくて美味しかった。

  


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2010年01月19日

6.東京の博物館で見つけた長崎!

既に述べたように、東西二つの長崎の間では、歴史的な意味での関連性を示す証拠は発見できなかったが、その呼び名が同じであるが故に、心温まる交流の存在が確認された。

さて、次に、さらにターゲットを豊島区長崎から東京全域に広げ、東京にある長崎のゆかりを捜し歩いてみよう。まず、博物館関係から。

東京都内には、100を超える博物館や美術館がある。それらの中で、長崎を直接テーマにした施設は見当たらない。しかし、長崎ゆかりの所蔵品を豊富に持つ博物館はある。江戸東京博物館と東京国立博物館がそれである。




(1)江戸東京博物館
1993年に設立された、墨田区のJR両国駅前にある都立の博物館である。江戸・東京の文化をターゲットにしているが、長崎由来の所蔵物も数多い。実際に、同博物館の資料係のスタッフのご協力を得て、所蔵品の中でその名前の中に「長崎」という名詞を含むものをリストアップしてみたら、554点に達した。17万点とされる同博物館全体の所蔵品数全体の中ではごく一部ということになるが、名称の中に直接長崎という文字は含まれていなくとも、長崎から持ち込まれた所蔵品は少なくない。

同博物館が所蔵する長崎ゆかりの資料は、絵画、写真、地図、古文書、古銭と多種、多様である。絵画、写真は長崎港を描いたものが多い。また、古文書としては、出島のカピタン文書のほか、勝海舟が安政3年に長崎の旅館にあてた信書などがある。また、古銭としては、江戸時代初期に、中国から輸入され日中貿易に用いられた「元豊通宝」などがある。そうした中で、カッパの漫画で有名な清水崑氏のスケッチが74点に上っているのが目立っている。

やや意外に思われたのは、原爆被爆のほか、キリシタンとかオランダに関連したものが多くないことである。検索システムで調べた限りでは、それぞれ数点に満たない。

そうした中で、オランダ関連で極めて重要な資料がひとつある。それは、現存唯一の阿蘭陀風説書(おらんだふうせつがき)の原本で、1797(寛政九)年6月、商館長(カピタン)ヘンミーから幕府に提出されたものである。国の重要文化財に指定されている。阿蘭陀風説書は,唐船風説書と並んで鎖国時代の貴重な海外情報源で,本件にもフランス革命後の欧州の動乱が記されており、日蘭交渉史上特に貴重なものだという。なお、この風説書は、長崎歴史文化博物館が2009年10月から2010年1月にかけて催した日蘭通商400周年記念展「阿蘭陀とNIPPON ~レンブラントからシーボルトまで」に貸出・出展された。


写真上は「阿蘭陀風説書」。

(2)国立博物館
長崎キリシタン関連の重要な文化財は、実は東京国立博物館(上野)に数多く所蔵されている。

東京国立博物館は、500を超えるキリシタン関係遺品を所蔵しており、その多くが国の重要文化財に指定され、キリスト教信仰の歴史をたどる貴重な資料となっている。大半は長崎奉行所が信徒から没収した品で、明治12年(1879)に内務省に引き継がれたものだという。

所蔵品は聖母像、ロザリオ、十字架、踏み絵などが中心であるが、その中で、国の重要文化財「親指のマリア」(聖母像) は、鎖国下の1708年に来日し、新井白石
(1657~1725)から取り調べを受けたことで知られる、イタリア人宣教師シドッチが母国から持ち込んだもので、特に有名である。


「親指のマリア」。
「親指のマリア」の画像は国立博物館のHPの中の所蔵品リストのページ
http://www.bunka.go.jp/1hogo/shoukai/main.asp%7B0fl=show&id=1000000524&clc=1000000153&cmc=1000000163&cli=1000000197&cmi=1000000481%7B9.html
からみることができる。
実物はB5版の大きさで、青の礼服にまとった女性の袖の辺りに左の親指が見える。
現在国立博物館に画像利用の申請中。  


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2010年01月19日

7.東京都内にも散らばっているぞ!長崎ゆかりのモノ

長崎のゆかりは、実は博物館の外にもたくさん散らばっている。以下では、そのうちのいくつかを簡単に紹介したい。

なお、残念なのは、日程とマンパワーの関連で、今回の紹介が歴史というキーワードで関連付けられる範疇にとどまったことである。例えば、長崎の味・・・長崎ちゃんぽん・皿うどんや佐世保バーガーの美味しい店、長崎カステラを購入できる場所、長崎の素材で料理をしている店、など、・・・興味深い長崎のゆかりはほかにもたくさんある。今回、紹介できなかった長崎のゆかりについては、読者の皆さんが自分の足、目、そして舌で確認して欲しい。




(1)「長崎屋」跡

寛永18年(1641年)に日本が鎖国となった後、長崎出島においてただ一国貿易を許されていたオランダは、そのお礼の意味で年一度献上品を携えて江戸に上り、将軍に拝謁することになっていた。その際、一行は、江戸では長崎屋源右衛門の長崎屋を定宿とし、100名以上も泊まったそうである。また、長崎屋にオランダ人が滞在している間に、幕府の天文方、医官、蘭学者などが訪問して学術的な質問をするなど、知識の交流の場としても大きな役割を果たした。

この長崎屋の跡は、JR新日本橋駅のすぐ近く、今の日本橋室町にある。



ここに長崎屋があったことを示すパネル。

(2)三浦按針屋敷跡

東京都中央区日本橋に、長崎県平戸に永眠している三浦按針の屋敷跡がある。

ウィリアム・アダムス(三浦按針)は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家。日本に到着した初めてのオランダ船リーフデ号で入国した。現在、按針居住の地は、昭和5年6月、東京府史跡の指定を受け、同7月、地元有志の手で記念碑が建てられたが、戦災で破壊され、昭和26年5月に現在の記念碑が建てられた。



三浦按針屋敷跡を示す碑。

(3)遠山金四郎屋敷跡

東京墨田区菊川に遠山金四郎屋敷跡がある。桜吹雪の刺青で有名な遠山金四郎景元は、長崎奉行遠山景晋の息子ということで長崎に縁がある人物だ。

もともと遠山景晋は遠山景好(かげよし)のもとへ養子に入り、そこで景元が生まれる。しかし、その翌年、養父・景好に実子・景善(読みは同じかげよし)が生まれたため、景晋は景善も養子にする。つまり、景元には実父の養父の実子が兄弟になるという複雑な家庭に育つ。景善も景元を気遣って跡目にしようと養子縁組をするのだが、養父かつ義兄の景善が自分より1歳年下であるため、実際に家督相続ができないのではないか、と不安になり、一時期長屋に暮らし放蕩生活を送ったようだ。その際に刺青をしたとの話もある。結果的に景善が若くして亡くなったため、後に、勘定奉行、北町奉行、南町奉行、大目付などの要職を歴任する事となる。
芝居小屋の廃止を巡り水野忠邦と対立し、芝居小屋を守った(移転のみにとどめた)ことから江戸っ子から人気を博し、それが「遠山の金さん」という芝居の上演に繋がったと言われている。


菊川駅出口と屋敷後の解説版。

遠山金四郎屋敷跡の碑。

(4)切支丹屋敷と切支丹坂
国立博物館の紹介で登場した宣教師シドッチが幽閉されていたのは、東京都文京区茗荷谷の通称切支丹屋敷である。この屋敷は宗門改役を勤めていた井上政重の下屋敷であったが、正保3年(1646年)屋敷内に牢屋を建て、転びバテレンを収容し宗門改めの情報集めに用いたそうである。主な入牢者にシドッチのほか、イタリアの宣教師ヨセフ・キアラがいた。享保9年(1724年)火災により焼失し、以後再建されぬまま寛政4年(1792年)に廃止された。現在、切支丹屋敷跡」という碑があり、そこに今述べたような説明が記されている。

まお、キアラは長崎市外海の遠藤周作記念館ゆかりの小説、「沈黙」のモデルになった人物であり、また、井上もこの小説に登場する。


切支丹屋敷跡の碑。

切支丹屋敷のガイド。

また、そのすぐ近くには切支丹坂という名の坂道がある。住宅街の中のよくありそうな短い坂であるが、志賀直哉の『自轉車』という名の小説に登場する。志賀直哉はその中で自らを「自轉車氣違ひ」というくらい、どこに行くにも当時としてはきわめて高価な自転車を常に乗り回していたそうであるが、その小説には、「恐ろしかったのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるといふ事は後に知ったが、急ではあるが、それ程長くなく、登るのは兎に角、降りるのはそんなに六ケしくない筈なのが、道幅が一間半程しかなく、しかも两側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、晝でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛び込む心配のある事だつた。私は或る日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた歸途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上體を前に、足を眞ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルゝ降りたのである。ひよどり越を自轉車でするやうなもので、中心を餘程うまくとつてゐないと車を倒して了ふ。坂の登り口と降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。然し私は遂に成功し、自轉車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうといふ満足を感じた。」とあって、長崎のオランダ坂を思わずにいられない。

なお、明治の文豪たちは以外にも自転車好きが多かったようである。夏目漱石や森鴎外なども自転車を趣味にしていたようで、森鴎外には自転車の速度をタイヤの摩擦、風の抵抗なども考慮した数式のメモすら残されている。



キリシタン坂。


キリシタン坂にある電柱。そこがキリシタン坂であることを示すガイドはなく、坂の途中にある電柱にキリシタンという文字が唯一の手がかりである。

(5)板橋区高島平
1841年(天保12年)、武州徳丸が原で長崎出身の砲術家・高島秋帆が日本で初めての洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。このため、現在はこの地が高島平と呼ばれるようになった。この演習の結果、秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用されたが、幕府から重用されることを妬んだ鳥居耀蔵により翌1842年に投獄され、高島家は一旦断絶となった。しかし、1853年、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。その後は幕府の講武所支配及び師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。


板橋区郷土資料館の入口に設置されている大砲。

秋帆の洋式砲術は、幕末の志士である吉田松陰や坂本龍馬、河井継之助らも大きな影響を与えたとされている。


高島が用いたモルチール砲と同形・同寸の大砲(郷土資料館内に展示)。

(6)活版印刷

東京都中央区築地に、長崎新塾出張活版製造所(後の平野活版印刷所、築地活版製作所)発祥の碑がある。この活版製作所は、明治6年(1873年)に、長崎出身で後に石川島播磨工業を創設した平野富二によって築地に設立された。この平野富二は、日本の近代活版印刷の先駆者として知られており、長崎生れの本木昌造に師事していた。この活版製作所では、活字だけでなく活版印刷機械や、その付属品も製作されていたそうだ。本木、平野を輩出した長崎は、まさに日本印刷文化の源泉といえよう。


写真は東京築地にある「活字発祥の碑」。

さらに、そこから徒歩で10分程度の東京都中央区入船にあるミズノ・プリンティング・ミュージアムには、平野活版製造所製造の活版印刷機が展示されている。明治初期にイギリスから輸入されたアルビオンプレスという手引き印刷機(ハンドプレス)を模して、平野活版製造所が製造した国産の活版印刷機であり、日本機械学会によって、長崎の小菅修船場跡の曳揚げ装置や三菱重工長崎造船所史料館の陸用蒸気タービンなどとともに、機械遺産に認定されている。アルビオンプレス型の手引き印刷機は、明治期盛んに用いられたものの、国産で現存しているものは僅かであり、特に明治初期の平野活版製造所製の印刷機は、ここに現存するだけである。


水野館長と機械遺産となっている平野製活版印刷機。


平野製小型印刷機。

(7)路面電車
路面電車は日本においては、軌道法の管轄下にあり、鉄道事業法に基づく一般の鉄道とは明確に区別されている。原則として併用軌道を走行するのが路面電車だ(一方、道路外を走行するのが鉄道)。

日本には、19の軌道線として現存する路面電車事業者がある。

①札幌市交通局、②函館市交通局、③東京都交通局、④東京急行電鉄、⑤豊橋鉄道、⑥富山地方鉄道、⑦富山ライトレール、⑧万葉線(高岡市・射水市)、⑨福井鉄道、⑩京阪電気鉄道、⑪京福電気鉄道、⑫阪堺電気軌道、⑬岡山電気軌道、⑭広島電鉄、⑮土佐電気鉄道、⑯伊予鉄道、⑰長崎電気軌道、⑱熊本市交通局、⑲鹿児島市交通局。

長崎電気軌道の歴史は古く1914年(大正3年)8月2日設立。1915年(大正4年)11月16日、病院下(現・大学病院前) - 築町間の電気軌道(路面電車)を開業し、現在、5路線4系統を営業する。また、日本初の車体広告・日本初の商業ビル内を走る路面電車・路面電車としては日本一安い運賃・現役営業車両としては日本最古かつ唯一の木造電車などの日本一・日本初がある。

東京では、いわゆる「都電」の名残である荒川線と、「玉電」の愛称で親しまれていた東急世田谷線が今も営業を続けている。


写真左上は、都電荒川線。写真右上は都電荒川線の始発駅、早稲田駅。

(8)諏訪神社
諏訪神社は、長野県の諏訪湖の両岸にある諏訪大社より祭神の勧請を受けた神社である。諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰という。諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に多い。諏訪神社の数は全国で約2,500社である。

諏訪大社の祭神は諏訪大明神ともいわれる建御名方神とその妃である八坂刀売神で、他の諏訪神社もこの二神を主祭神とする他、諏訪大神と総称することもある。諏訪大社より祭神を勧請する際には薙鎌に神霊が移され、各神社ではこれを神体としている。また、中世には狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業を守護する神社としても崇拝を受ける。これらは諏訪大社の山神としての性格を表している。諏訪大社では6年に一度、御柱と呼ばれる4本の杭を立てる御柱祭が行われるが、全国の諏訪神社でも同様の祭が行われる。岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、諏訪信仰に分類される神社は、全国6位(2,616社)であるという。

東京にも諏訪神社はいくつかあるが、ここでは新宿区高田馬場の諏訪神社を紹介する。弘仁年間に創建されたと伝えられており、徳川義直が諏訪神社に改名するまでは松原神社と呼ばれていた。徳川家の鷹狩りと深いつながりがあるそうだ。ここに諏訪神社が置かれたために、この一帯はかつて諏訪町と呼ばれていたが、現在、その地名は消滅している。


諏訪神社鳥居。

諏訪神社本殿。

(9)平和祈念像
北区「北とぴあ」、板橋区役所前、井の頭自然文化公園、三鷹市「仙川公園」に長崎の平和公園にある平和祈念像のレプリカがある。

写真は、板橋区役所前にある平和祈念像であるが、長崎の平和公園のものと異なり、立像となっている。表情もすこし穏やかに感じられるような気がするのは筆者だけであろうか。

一方、吉祥寺の井の頭自然文化園の平和祈念像は、長崎と全く同じ姿となっている。


写真左および上は、板橋区役所前の平和祈念像。

(10)「広島・長崎の火」モニュメント
上野恩賜公園内にある上野東照宮境内に、広島の被爆兵が原爆の廃虚から故郷の福岡県星野村へ持ち帰った火と、長崎の被爆瓦(かわら)から摩擦でおこした火を上野東照宮の境内で一つにし、永遠に平和を誓う「広島・長崎の火」として燃やし続けている。


写真左および上は、上野東照宮にある「広島・長崎の火」のモニュメント。

(参考文献)
練馬区「練馬区小史」
豊島区郷土資料館「長崎村物語」
宇津木令「東京長崎村物語(武州豊島郡長崎村)」
豊島区遺跡調査会「長崎並木Ⅰ」(長崎地区発掘調査記録)
ミズノプリテック「MIZUNO PRINTING MUSEUM」
ウィキペディア

以  上  


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2009年12月08日

当面の予定です

ふかのこうへいです。
 東京にあった!?長崎の兄弟!チームの当面の作業イメージをお知らせします。

<当面のイベント>
12月10日頃:深野が書き溜めている「草稿」のファイルを皆さんにお送りします。

12月13日午後:東京にある長崎ゆかりの場所の写真撮影ツアー。深野、前田、茨木(長崎市東京事務所)が、ぐるっと回ってきます。

12月16日:在京長崎応援団塾

12月17日:長崎出身の大将がやっている居酒屋で飲む会。ルポ担当の前田さん、出席をお願いしますね!

<草稿>
未だ以下の部分が書ききれていません。

1.2回のルポルタージュ(前田さん)
まずは、先日の秋の大祭のレポート。そして17日に開催する予定の飲み会の模様。さくっと書き上げてくださいね。

2.東西2つの長崎の縁(深野)
大水害のときの義捐金については草稿に書き込みましたが、両方の長崎の寄席で交流がある話はかけていません。東京の長崎寄席の方が17日に飲み会に参加していただけそうなので、それを踏まえて作成します。

3.都内にある長崎ゆかりの場所の写真
13日に撮影してきましょう。前田さんのカメラマンとしての本領が発揮されますね。

4.東京江戸博物館にある長崎(田辺さん)
17日にどんな感じになるか、相談しましょう。

いずれにせよ、10日頃に未完成の草稿を皆さんに送りますので、コメントなどを期待しております!
宜しく!

  


Posted by 在京長崎応援団塾 at 17:17Comments(0)

2009年11月09日

12月7日のお知らせ

深野です。
東京の長崎・第2回探訪会を開催します。
今回は夜の部face05
12月7日の19時頃に椎名町駅(西武池袋線で、池袋から1つ目くらいの駅)の北口に集合です。長崎から東長崎に来ている大将の店で、長崎をネタに飲みます。
参加希望者はこのブログにレスポンス(コメント)してくださいface02
多数の参加、期待しています。
前田さんにはカメラ持参で、是非、参加願います。  


Posted by 在京長崎応援団塾 at 14:55Comments(0)

2009年09月07日

第1回東京の長崎探訪会

深野です。face01
東長崎と長崎のつながりを探るチームでは、第1回目の東京長崎村探訪会を開催します。icon22
日時・場所は9月13日(日)12時(正午)に、西武池袋線椎名町駅北口改札口を出たところに集合。昼食を済ませて集合してください。
当日は、長崎神社(いかにも長崎に縁がありそう?)の秋の大祭があります。神輿がでるそうです。これをルポして、長崎くんちとの共通点を探しましょう!・・・たぶん長崎くんちとは関係ないと思うけど・・・。
東長崎探訪チーム以外の皆さんからの参加も歓迎です。夕方3~4時頃には解散したいと思います。  


Posted by 在京長崎応援団塾 at 09:04Comments(0)

2009年09月04日

東京の長崎の歴史(深野浩平)

東京にある長崎(元・長崎村)について調べたHPを発見しましたface02
びっくりするほどface08詳しく調べられています。
こちらをご覧ください。

http://www.geocities.jp/netreal_bookbox/Nagasakimura/index.html  


Posted by 在京長崎応援団塾 at 14:28Comments(1)