2010年01月19日
2.二つの長崎 その生い立ち
東京の長崎。もともとこの地域は、武州豊島郡長崎村と呼ばれていた。その起源は鎌倉時代に遡る。鎌倉時代末期に北条氏得宗家に仕えた「長崎氏」一族に支配されていた地域であったゆえ、長崎村と呼ばれるようになったとのことだ。ちなみに、長崎という名前が史書に初めて登場したのは、1559年の小田原衆所領役帳である。その記録に「太田新六郎堵知行江戸長崎」といった記載があるそうだ。この太田新六郎は当時の長崎村ばかりでなく、現在の池袋、雑司が谷、高田などの土地を領有しており、総貫高は直轄領と家臣への配分所領を合わせると1,410貫文以上で、北条氏一門や家老に匹敵する有力者であったと推察される。さらに太田新六郎は後に登場する太田道灌の三代の孫ということらしい。いずれにせよ、北条氏は相当早い段階から長崎村周辺を領地として認識していた、ということになる。さて、この「長崎氏」、もともと伊豆国田方郡長崎郷に居を構えていた桓武平氏庶家で、伊豆の長崎に住んでいたことから「長崎氏」を名乗ったそうだ。現に、今も伊豆の国市には長崎という地名が残っている。ただ、この説は口伝によって残されたものであり、未だ豊島区によって正式にオーソライズされた歴史ではないそうだ。いずれにせよ、これが正しければ、九州の長崎が「長崎」として認知される遥か以前に、東京の長崎は存在していたことになる。もし、二つの長崎に関係があるなら、東京の長崎が兄貴分ということになりそうだ。
では、九州の長崎のルーツはいかなるものなのか。九州の長崎は桓武平氏千葉流の流れを汲む「長崎氏」によって支配された地域だそうだ。今の県庁舎がある場所が当時長い御崎であり、そこに居を構えていた九州千葉氏が「長崎氏」を最初に名乗ったとの説が有力だ。そしてこの千葉氏、元寇の際に下総(今の千葉県)から九州に派遣された千葉宗胤が祖であるとのこと。そうであれば伊豆の長崎氏との関係は希薄になる。ただ、この長崎氏が実は鎌倉幕府御案内人の長崎氏の一派であるとの説もあるらしい。もしそれが事実なら、東京の長崎と九州の長崎は兄弟ということになる。事実ははっきりとはわからないが、むしろわからないほうがロマンがあるともいえる。
中世以降、東西の「長崎氏」は、それぞれ別々に発展を遂げており、二つの長崎を関連付ける証は存在していない。つまり、九州の長崎と東京の長崎が兄弟であることを示すDNAは未だ発見されていないということだ。
では、九州の長崎のルーツはいかなるものなのか。九州の長崎は桓武平氏千葉流の流れを汲む「長崎氏」によって支配された地域だそうだ。今の県庁舎がある場所が当時長い御崎であり、そこに居を構えていた九州千葉氏が「長崎氏」を最初に名乗ったとの説が有力だ。そしてこの千葉氏、元寇の際に下総(今の千葉県)から九州に派遣された千葉宗胤が祖であるとのこと。そうであれば伊豆の長崎氏との関係は希薄になる。ただ、この長崎氏が実は鎌倉幕府御案内人の長崎氏の一派であるとの説もあるらしい。もしそれが事実なら、東京の長崎と九州の長崎は兄弟ということになる。事実ははっきりとはわからないが、むしろわからないほうがロマンがあるともいえる。
中世以降、東西の「長崎氏」は、それぞれ別々に発展を遂げており、二つの長崎を関連付ける証は存在していない。つまり、九州の長崎と東京の長崎が兄弟であることを示すDNAは未だ発見されていないということだ。
Posted by 在京長崎応援団塾 at 02:20│Comments(0)
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