東京に「東長崎」という駅がある。このあたりは、昔、長崎村と呼ばれていた地域だそうだ。 東京の元長崎村を探索して、長崎の面影や長崎ゆかりの食材などはないか、長崎と元長崎村の関係はあるのか、などを写真と文章でレポート していきます!

2010年01月19日

3.東京の長崎のその歴史

現在の豊島区長崎は紛れもなく東京23区内の都会だが、江戸時代の長崎は江戸の範疇に入っていなかった。この辺を、江戸時代の少し前から遡ってみよう。もともと江戸幕府か開府される前の豊島郡は、今の千代田区や中央区から豊島区、練馬区までを含む広大なエリアだった。おそらく、豊島郡という名前は、練馬城(現在の豊島園)、石神井城(現在の石神井公園)を拠点としていた豊島氏にちなんだものではないだろうか。石神井城は鎌倉末期に築城との説が有力だ。室町時代になると、豊島氏は上杉禅秀の乱で勝利を収めた鎌倉公方足利持氏側につき、勢力を伸ばしている。その後も上杉と足利の争いは根深く続き、上杉方は太田道灌に江戸城を築城させる。この江戸城は豊島氏の二つの居城と距離が近く、このあたりから豊島氏と道灌との溝は深まったようだ。豊島氏はその後、太田道灌に対して挙兵した長尾景春に呼応し、太田道灌と戦うことになるが、江古田・沼袋原の戦い(1477年)で大敗を喫し、二つの城は落城してしまう。

その年、太田道灌は一旦は長尾景春を鉢形城に追い詰めるが、足利の血をひく古河公方の出陣を知り、引き下がることになる。そして、翌年末になると古河公方の有力武将であった千葉孝胤と境根原合戦で対峙しこれを破り、翌年には千葉孝胤と千葉氏の当主を争っていた千葉自胤やその甥、資忠を擁して孝胤と争い一旦は孝胤を放逐する。しかし、道灌が下総から撤退するとすぐに孝胤が戻り、自胤側の勢力は下総から一掃されることになる。
豊島郡が一つの舞台となった室町時代の歴史絵巻の中で、江戸城築城の大きな目的の一つが、東方の古河公方側有力武将の千葉氏を抑えるためだったこと、さらに太田道灌VS長尾・古河による上記享徳の乱において道灌が千葉と争ったこと、など、九州肥前の長崎氏ゆかりの千葉氏が登場するのは興味深い。

さて、時は江戸時代に移り、家康が江戸城を増築するに至り、江戸市中が豊島郡から切り離される。すなわち、長崎村は大江戸八百八町の外側の集落になる。当時の華やかな繁栄とは無縁な、平和な農村として江戸時代を過ごすことになるのだ。この時代の長崎村は、現在の長崎、南長崎のほか、千川、千早町、要町、高松町、目白の一部、西池袋の一部、下落合の一部と、現在の豊島区の3割程度を占める広大なエリアだった。当時、今風に言えば大都市近郊型農業地帯で、茄子や大根(今で言う練馬大根)が特産品だった。さて、農業に必要なのは、土地と人手と水だ。このうち、水については、もともと現在の粟島神社の湧き水を主水源とする谷端川によってまかなわれていたようだが、それだけでは広大な農地を潤すのは困難だ。そこで江戸時代には千川上水が作られた。今、長崎村界隈でこの千川上水を捜すと、千川通り下の暗渠となっており目にすることはできない。しかし、千川通り、あるいは豊島区千川という地名がその名残をとどめている。


豊島区郷土資料館作成の「長崎村物語~江戸近郊農村の伝承文化」に掲載されている民話「小さい桶」は、この千川上水が舞台になっている。ある時、近くに住む農夫が、千川上水でかわうそに襲われていたむじなの子を救う。その後、農夫が桶を作っていると成長したむじながその手助けをする、という言わば「むじなの恩返し」みたいなハッピーエンドのストーリーだ。今は交通量の多い通りになっている千川通りからは想像もつかない話だが、実はこの千川上水を上流に遡ると、練馬区、武蔵野市の辺りで上水が姿を見せ、武蔵野の面影が深い農村風景が広がる。上水には鯉も泳いでいる。余談になるが、メンバーの深野の自宅はこの上水から50メートルくらいのところにあり、週末には、今でも当時の長崎村を満喫させてもらっている。


写真は、豊島区立郷土資料館発行の「長崎村物語」。


後に登場願うが、椎名町周辺は長崎村の中心地で、駅前の長崎神社は村の鎮守だったそうだ。この長崎神社では、秋の大祭と春の獅子舞が有名だ。九州の長崎でも秋の大祭にあたる長崎くんちが有名だし、春節にはランタンフェスティバルで必ず中国獅子舞が舞われている。不思議な共通点があるように思うのは我々だけだろうか。

慶応4年(1868年)になると、長崎村は武蔵県の管轄下におかれることになる。その後、明治になり長崎村の管轄が武蔵県、大宮県、浦和県と変わり、明治4年(1871年)に、浦和県が岩槻県、忍県と合併して埼玉県となった際に、豊島郡29村は東京府に編入される。東京の長崎が名実ともに誕生した瞬間だ。当時の呼び名は東京府北豊島郡長崎村だ。そして昭和7年(1932年)になってようやく長崎町(長崎村からの町制施行は1926年)は高田町、巣鴨町、西巣鴨町と合併し豊島区として東京市に編入され今に至っている。


Posted by 在京長崎応援団塾 at 02:19│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。