東京に「東長崎」という駅がある。このあたりは、昔、長崎村と呼ばれていた地域だそうだ。 東京の元長崎村を探索して、長崎の面影や長崎ゆかりの食材などはないか、長崎と元長崎村の関係はあるのか、などを写真と文章でレポート していきます!

2010年01月19日

7.東京都内にも散らばっているぞ!長崎ゆかりのモノ

長崎のゆかりは、実は博物館の外にもたくさん散らばっている。以下では、そのうちのいくつかを簡単に紹介したい。

なお、残念なのは、日程とマンパワーの関連で、今回の紹介が歴史というキーワードで関連付けられる範疇にとどまったことである。例えば、長崎の味・・・長崎ちゃんぽん・皿うどんや佐世保バーガーの美味しい店、長崎カステラを購入できる場所、長崎の素材で料理をしている店、など、・・・興味深い長崎のゆかりはほかにもたくさんある。今回、紹介できなかった長崎のゆかりについては、読者の皆さんが自分の足、目、そして舌で確認して欲しい。




(1)「長崎屋」跡

寛永18年(1641年)に日本が鎖国となった後、長崎出島においてただ一国貿易を許されていたオランダは、そのお礼の意味で年一度献上品を携えて江戸に上り、将軍に拝謁することになっていた。その際、一行は、江戸では長崎屋源右衛門の長崎屋を定宿とし、100名以上も泊まったそうである。また、長崎屋にオランダ人が滞在している間に、幕府の天文方、医官、蘭学者などが訪問して学術的な質問をするなど、知識の交流の場としても大きな役割を果たした。

この長崎屋の跡は、JR新日本橋駅のすぐ近く、今の日本橋室町にある。



ここに長崎屋があったことを示すパネル。

(2)三浦按針屋敷跡

東京都中央区日本橋に、長崎県平戸に永眠している三浦按針の屋敷跡がある。

ウィリアム・アダムス(三浦按針)は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家。日本に到着した初めてのオランダ船リーフデ号で入国した。現在、按針居住の地は、昭和5年6月、東京府史跡の指定を受け、同7月、地元有志の手で記念碑が建てられたが、戦災で破壊され、昭和26年5月に現在の記念碑が建てられた。



三浦按針屋敷跡を示す碑。

(3)遠山金四郎屋敷跡

東京墨田区菊川に遠山金四郎屋敷跡がある。桜吹雪の刺青で有名な遠山金四郎景元は、長崎奉行遠山景晋の息子ということで長崎に縁がある人物だ。

もともと遠山景晋は遠山景好(かげよし)のもとへ養子に入り、そこで景元が生まれる。しかし、その翌年、養父・景好に実子・景善(読みは同じかげよし)が生まれたため、景晋は景善も養子にする。つまり、景元には実父の養父の実子が兄弟になるという複雑な家庭に育つ。景善も景元を気遣って跡目にしようと養子縁組をするのだが、養父かつ義兄の景善が自分より1歳年下であるため、実際に家督相続ができないのではないか、と不安になり、一時期長屋に暮らし放蕩生活を送ったようだ。その際に刺青をしたとの話もある。結果的に景善が若くして亡くなったため、後に、勘定奉行、北町奉行、南町奉行、大目付などの要職を歴任する事となる。
芝居小屋の廃止を巡り水野忠邦と対立し、芝居小屋を守った(移転のみにとどめた)ことから江戸っ子から人気を博し、それが「遠山の金さん」という芝居の上演に繋がったと言われている。


菊川駅出口と屋敷後の解説版。

遠山金四郎屋敷跡の碑。

(4)切支丹屋敷と切支丹坂
国立博物館の紹介で登場した宣教師シドッチが幽閉されていたのは、東京都文京区茗荷谷の通称切支丹屋敷である。この屋敷は宗門改役を勤めていた井上政重の下屋敷であったが、正保3年(1646年)屋敷内に牢屋を建て、転びバテレンを収容し宗門改めの情報集めに用いたそうである。主な入牢者にシドッチのほか、イタリアの宣教師ヨセフ・キアラがいた。享保9年(1724年)火災により焼失し、以後再建されぬまま寛政4年(1792年)に廃止された。現在、切支丹屋敷跡」という碑があり、そこに今述べたような説明が記されている。

まお、キアラは長崎市外海の遠藤周作記念館ゆかりの小説、「沈黙」のモデルになった人物であり、また、井上もこの小説に登場する。


切支丹屋敷跡の碑。

切支丹屋敷のガイド。

また、そのすぐ近くには切支丹坂という名の坂道がある。住宅街の中のよくありそうな短い坂であるが、志賀直哉の『自轉車』という名の小説に登場する。志賀直哉はその中で自らを「自轉車氣違ひ」というくらい、どこに行くにも当時としてはきわめて高価な自転車を常に乗り回していたそうであるが、その小説には、「恐ろしかったのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるといふ事は後に知ったが、急ではあるが、それ程長くなく、登るのは兎に角、降りるのはそんなに六ケしくない筈なのが、道幅が一間半程しかなく、しかも两側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、晝でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛び込む心配のある事だつた。私は或る日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた歸途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上體を前に、足を眞ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルゝ降りたのである。ひよどり越を自轉車でするやうなもので、中心を餘程うまくとつてゐないと車を倒して了ふ。坂の登り口と降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。然し私は遂に成功し、自轉車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうといふ満足を感じた。」とあって、長崎のオランダ坂を思わずにいられない。

なお、明治の文豪たちは以外にも自転車好きが多かったようである。夏目漱石や森鴎外なども自転車を趣味にしていたようで、森鴎外には自転車の速度をタイヤの摩擦、風の抵抗なども考慮した数式のメモすら残されている。



キリシタン坂。


キリシタン坂にある電柱。そこがキリシタン坂であることを示すガイドはなく、坂の途中にある電柱にキリシタンという文字が唯一の手がかりである。

(5)板橋区高島平
1841年(天保12年)、武州徳丸が原で長崎出身の砲術家・高島秋帆が日本で初めての洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。このため、現在はこの地が高島平と呼ばれるようになった。この演習の結果、秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用されたが、幕府から重用されることを妬んだ鳥居耀蔵により翌1842年に投獄され、高島家は一旦断絶となった。しかし、1853年、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。その後は幕府の講武所支配及び師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。


板橋区郷土資料館の入口に設置されている大砲。

秋帆の洋式砲術は、幕末の志士である吉田松陰や坂本龍馬、河井継之助らも大きな影響を与えたとされている。


高島が用いたモルチール砲と同形・同寸の大砲(郷土資料館内に展示)。

(6)活版印刷

東京都中央区築地に、長崎新塾出張活版製造所(後の平野活版印刷所、築地活版製作所)発祥の碑がある。この活版製作所は、明治6年(1873年)に、長崎出身で後に石川島播磨工業を創設した平野富二によって築地に設立された。この平野富二は、日本の近代活版印刷の先駆者として知られており、長崎生れの本木昌造に師事していた。この活版製作所では、活字だけでなく活版印刷機械や、その付属品も製作されていたそうだ。本木、平野を輩出した長崎は、まさに日本印刷文化の源泉といえよう。


写真は東京築地にある「活字発祥の碑」。

さらに、そこから徒歩で10分程度の東京都中央区入船にあるミズノ・プリンティング・ミュージアムには、平野活版製造所製造の活版印刷機が展示されている。明治初期にイギリスから輸入されたアルビオンプレスという手引き印刷機(ハンドプレス)を模して、平野活版製造所が製造した国産の活版印刷機であり、日本機械学会によって、長崎の小菅修船場跡の曳揚げ装置や三菱重工長崎造船所史料館の陸用蒸気タービンなどとともに、機械遺産に認定されている。アルビオンプレス型の手引き印刷機は、明治期盛んに用いられたものの、国産で現存しているものは僅かであり、特に明治初期の平野活版製造所製の印刷機は、ここに現存するだけである。


水野館長と機械遺産となっている平野製活版印刷機。


平野製小型印刷機。

(7)路面電車
路面電車は日本においては、軌道法の管轄下にあり、鉄道事業法に基づく一般の鉄道とは明確に区別されている。原則として併用軌道を走行するのが路面電車だ(一方、道路外を走行するのが鉄道)。

日本には、19の軌道線として現存する路面電車事業者がある。

①札幌市交通局、②函館市交通局、③東京都交通局、④東京急行電鉄、⑤豊橋鉄道、⑥富山地方鉄道、⑦富山ライトレール、⑧万葉線(高岡市・射水市)、⑨福井鉄道、⑩京阪電気鉄道、⑪京福電気鉄道、⑫阪堺電気軌道、⑬岡山電気軌道、⑭広島電鉄、⑮土佐電気鉄道、⑯伊予鉄道、⑰長崎電気軌道、⑱熊本市交通局、⑲鹿児島市交通局。

長崎電気軌道の歴史は古く1914年(大正3年)8月2日設立。1915年(大正4年)11月16日、病院下(現・大学病院前) - 築町間の電気軌道(路面電車)を開業し、現在、5路線4系統を営業する。また、日本初の車体広告・日本初の商業ビル内を走る路面電車・路面電車としては日本一安い運賃・現役営業車両としては日本最古かつ唯一の木造電車などの日本一・日本初がある。

東京では、いわゆる「都電」の名残である荒川線と、「玉電」の愛称で親しまれていた東急世田谷線が今も営業を続けている。


写真左上は、都電荒川線。写真右上は都電荒川線の始発駅、早稲田駅。

(8)諏訪神社
諏訪神社は、長野県の諏訪湖の両岸にある諏訪大社より祭神の勧請を受けた神社である。諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰という。諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に多い。諏訪神社の数は全国で約2,500社である。

諏訪大社の祭神は諏訪大明神ともいわれる建御名方神とその妃である八坂刀売神で、他の諏訪神社もこの二神を主祭神とする他、諏訪大神と総称することもある。諏訪大社より祭神を勧請する際には薙鎌に神霊が移され、各神社ではこれを神体としている。また、中世には狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業を守護する神社としても崇拝を受ける。これらは諏訪大社の山神としての性格を表している。諏訪大社では6年に一度、御柱と呼ばれる4本の杭を立てる御柱祭が行われるが、全国の諏訪神社でも同様の祭が行われる。岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、諏訪信仰に分類される神社は、全国6位(2,616社)であるという。

東京にも諏訪神社はいくつかあるが、ここでは新宿区高田馬場の諏訪神社を紹介する。弘仁年間に創建されたと伝えられており、徳川義直が諏訪神社に改名するまでは松原神社と呼ばれていた。徳川家の鷹狩りと深いつながりがあるそうだ。ここに諏訪神社が置かれたために、この一帯はかつて諏訪町と呼ばれていたが、現在、その地名は消滅している。


諏訪神社鳥居。

諏訪神社本殿。

(9)平和祈念像
北区「北とぴあ」、板橋区役所前、井の頭自然文化公園、三鷹市「仙川公園」に長崎の平和公園にある平和祈念像のレプリカがある。

写真は、板橋区役所前にある平和祈念像であるが、長崎の平和公園のものと異なり、立像となっている。表情もすこし穏やかに感じられるような気がするのは筆者だけであろうか。

一方、吉祥寺の井の頭自然文化園の平和祈念像は、長崎と全く同じ姿となっている。


写真左および上は、板橋区役所前の平和祈念像。

(10)「広島・長崎の火」モニュメント
上野恩賜公園内にある上野東照宮境内に、広島の被爆兵が原爆の廃虚から故郷の福岡県星野村へ持ち帰った火と、長崎の被爆瓦(かわら)から摩擦でおこした火を上野東照宮の境内で一つにし、永遠に平和を誓う「広島・長崎の火」として燃やし続けている。


写真左および上は、上野東照宮にある「広島・長崎の火」のモニュメント。

(参考文献)
練馬区「練馬区小史」
豊島区郷土資料館「長崎村物語」
宇津木令「東京長崎村物語(武州豊島郡長崎村)」
豊島区遺跡調査会「長崎並木Ⅰ」(長崎地区発掘調査記録)
ミズノプリテック「MIZUNO PRINTING MUSEUM」
ウィキペディア

以  上


Posted by 在京長崎応援団塾 at 02:15│Comments(0)
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